バラードが似合うような月が、静かに浮かんでいた。

旧桟橋の手すりにもたれながら、僕はライトアップされた赤レンガ倉庫を眺めていた。 

函館港の水面には、月と倉庫の灯りが揺れている。

風はなく、波もほとんど立たない。

まるで、時間が止まっているようだった。

観光客の声が遠くに聞こえる。

けれど、この場所だけは、誰にも踏み込まれていないような静けさがあった。

僕はポケットからスマートフォンを取り出し、何度も開いては閉じた。

彼女との最後のLINEが、そこに残っている。

「ありがとう」と「さようなら」が並んだ、短い文。

先月、彼女はこの街を離れた。

理由は、僕たちの間にあった小さなすれ違いが、季節の変わり目のように、静かに距離を広げていったからだ。

港に浮かぶ満月を見上げる。

その輪郭が、ふと彼女の横顔に重なった。

笑っていたときの顔ではない。

最後に見た、少し泣きそうな顔。

「元気でね」と言った彼女の声が、バラードのように胸に響く。

僕はそっと目を閉じた。

月の光が、まぶたの裏に滲んでいく。

そして、もう一度目を開けたとき—— 

そこに浮かんでいたのは、彼女の顔になった月だった。


あとがき…

この物語は、秋の函館港に浮かぶ満月と、語り手の心に残る面影を重ねて描いた短い夜のストーリーです。

「彼女の顔になった月」というタイトルは、別れの記憶が風景に染み込んでいく瞬間を象徴しています。 

月はただ空にあるだけでなく、時に誰かの表情になり、言葉にならなかった感情を映し出す鏡のような存在になる——そんな思いから生まれました。

赤レンガ倉庫、旧桟橋、静かな港。

函館の夜は、観光地としての華やかさの裏に、誰かの記憶や感情がそっと息づいているように感じます。 

この物語が、読んでくださった方の心にも、静かなバラードのように響いてくれたなら嬉しいです。