青森県東北町には、歴史上の謎を秘めた不思議な石碑がある。 

その石碑は、高さ1.5mほどの大きさで、平安時代に坂上田村麻呂がこの地にやって来たときに矢じりで《日本中央》と刻みつけたものだと伝えられている。

 

昭和24年に、当時の甲地村の雑木林の土の中からこの石碑は発見された。 

この甲地村は、昔は石文村と都母()村と呼ばれた地区だったが、その地区にある千曳神社には、《壺の石文》があったと伝えられていた事に由来している。

 

この《都母()の石文》こそ《日本中央》と刻まれた画像の石であると、大きな論争が巻き起こった。 

それは、平安時代に顕行法師が記した『神中抄』によれば、「陸奥の国の奥地に都母の石文がある。そこは遥か日本の果てだという。坂上田村麻呂が、801年に4万もの兵を率いて、陸奥の国の蝦夷征伐に赴いた時、矢じりで石文の面に《日本中央》と刻みつけたもので、その付近は都母という地名であった」と記録されているからだ。 

また、西行法師の和歌にも「陸奥の奥ゆかしくぞ おもほゆる 壺の碑そとの浜風」と詠まれている。 


しかし、征夷大将軍である坂上田村麻呂がどんな理由でこの場所(陸奥の国)《日本中央》としたのかが、大きな謎である。 

それは、坂上田村麻呂の軍団は、その当時は岩手県水沢付近までしか進軍しておらず青森県までは至らなかったとされているからだ!

 

平安時代の都人にまで有名な存在だった《都母()の石文》 

この石碑は、歴史の深い謎を秘め、北の果てに眠りつづけている。 

 

※青森県東北町では、この石碑や発見された場所(旧甲地村の雑木林)が保存されて見学することができます。