大学時代のことだ。

福島県出身の友人が、夏休みに里帰りした。
だが予定より早く戻ってきたと連絡があり、 僕たちは彼のアパートに集まった。

部屋に入った瞬間、空気が違った。
彼は膝を抱え、まるで湿った闇に怯えるように震えていた。

「……話を聞いてくれるか」

その声は、喉の奥から絞り出すようだった。
冗談や作り話の気配は一切ない。
“何かを見た人間”の声だった。


「家に帰った日の夕方、近所のスーパーに歩いてたんだ」

彼はゆっくり語り始めた。

「ちょうど日が沈む頃で……あの時間、なんて言うんだっけ?」

「逢魔が時だよ」 誰かが答えた。

彼は小さくうなずいた。

「その逢魔が時に、電柱のそばでしゃがんでる女の人がいたんだ。 髪が顔にかかってて、具合悪いのかと思ってさ」

《大丈夫ですか?》

そう声をかけた瞬間—— 

女が、ゆっくりと顔を上げた。

「……何もなかったんだよ」

彼の声が震えた。

「目も、鼻も、口も……全部ない。 のっぺらぼうだったんだ」

部屋の空気が、じっとりと湿った。


「そんなの見間違いだろ」
一人が笑ったが、 その笑いはすぐに消えた。

彼は震える手で膝を掴み、 必死に言葉を続けた。

「俺、嘘なんか言ってない。 怖くて……そのまま走って家に戻った。 それで、すぐこっちに帰ってきたんだ」

僕は静かに言った。

「……それ、むじなじゃないのか?」

その瞬間、 部屋の空気がさらに重く沈んだ。

狢(むじな)。
小泉八雲の怪談にも登場する、 人を惑わせる妖怪。

だがこれは怪談ではない。 彼が実際に“見てしまった”出来事だ。


そして——
この日を境に、 彼の周りでは説明のつかない怪現象が次々と起こり始める。

あの“顔のない女”は何だったのか。
なぜ彼の前に現れたのか。

その答えは、 誰も分からない。


あとがき

実話怪談には、 創作では出せない“湿度”がある。

逢魔が時という、 昼でも夜でもない曖昧な時間帯。
人の気配が薄れ、 境界がゆるむ瞬間。

その隙間に、 “見てはならないもの”が立ち上がる。

今回は、 まさにその境界で起きた出来事だ。