箱館ストーリー・第二話
「文筆堂に吹く、新しい風」
「――ここから、もう一度始めよう」
そう呟いたあの日から、季節は夏の終わりへと向かっていた。
栗生姉照喜は、静かにシャッターを上げた。
かつて美弥が営んでいた小さなブックカフェは、 新しい名を掲げて再び息を吹き返す。
文芸サロン 箱館クリオネ文筆堂。
チャチャ登りの坂を上りきった先、 和洋折衷の古民家を改装したその店は、 函館の風と光をそのまま抱きしめるように佇んでいた。
「栗生姉だからクリオネだよ」 美弥が笑いながらそう言った日の声が、 今も店内のどこかに残っている気がした。
本が好きだった美弥は、 この場所に小さなブックコーナーを作り、 観光客がほとんど訪れない立地でも、 「やりたいことをやれているから満足」と笑っていた。
そして紗季―― 栗生姉のかつての恋人であり、 “光を撮る”写真家だった女性。
「写真に救われたことがあるの。 だから、今度は私が誰かを救える写真を撮りたい」
そう語った紗季は、 函館の景色と人々の笑顔を、 まるで光の粒を集めるように写し取っていた。
早朝の漁港で働く漁師、 市場で開店準備に追われる人々、 赤レンガ倉庫の前で微笑む観光客、 季節の色に染まる八幡坂の光景――。
栗生姉は、紗季が残した写真を月ごとに選び、 店の片隅に飾ることにした。 それは、紗季がこの街に刻んだ“光の記憶”だった。
美弥は、 「照喜さんを好きなままになってしまうから」 という一通の手紙を残し、函館を去った。
今もどこにいるのか分からない。 連絡もつかない。
それでも栗生姉は、 二人の思い出が残るこの場所を手放さなかった。
扉を開けると、 紗季の姿がふとよぎり、 美弥が淹れたコーヒーの香りが蘇る。
二人の笑顔が、 今もこの店の空気の中に溶けているようだった。
「それでいい」
栗生姉はそう呟き、 函館に関する本や自費出版本を扱う “こだわりの本屋”として店を再生させた。
紗季が愛した函館の景色と、 美弥が夢見た本の世界を、 この店で静かに繋ぎ続けるために。
そして、運命の出会いが訪れる
ある日、十字街の老舗喫茶店でのことだった。
栗生姉は、知人から紹介された男性と待ち合わせをしていた。
その男性は、かつて十字街商店街に店を構えていた人物で、 アーケードがあった頃の写真をまとめた回顧録を制作しているという。
その回顧録を文筆堂にも置かせてほしい―― そんな相談のための面会だった。
だが、その横に立っていた女性が、 栗生姉の目を引いた。
「すみません、お邪魔して」
そう頭を下げた女性は、 広告代理店に勤めるデザイナー兼コピーライター。
函館に関する古い資料を集めており、 「一緒に行かないか」と誘われて同行したのだという。
差し出された名刺には、 里中麻琴 の名前。
明るい茶髪のショートボブ、 童顔で人懐っこい笑顔。
その場の空気をふわりと明るくするような女性だった。
この出会いが、 後に栗生姉の“片腕”となる人物との始まりだとは、 この時の二人にはまだ想像もできなかった。
文筆堂は、 ここから大きな転換期を迎えることになる。
この日、文筆堂の扉は静かに開いた。
新しい物語が、ここから始まろうとしていた。
あとがき
文芸サロン「箱館クリオネ文筆堂」は、 紗季と美弥という二人の記憶を抱えたまま、 静かに新しい季節を迎えようとしている。
過去の光と影を受け止めながら、 栗生姉照喜は再び歩き出した。
そして、 里中麻琴という新しい風が文筆堂に吹き込むことで、 物語は次の章へと動き始める。
第三話では、 文筆堂が“ただの本屋”から“物語を生む場所”へと変わっていく その最初の瞬間が描かれます。
【追記】
「note」にて掲載を初めた「箱館ストーリー」の第二話です。
これまでの物語を、文筆堂のオープンから順を追って長編物語として再編しています。
この続きはまだですが、次回からはぜひ「note」にて、お楽しみください。

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