箱館ストーリー「白い軌跡」
あるの日の午後、野本直美が文筆堂を訪れると、栗生姉が店じまいをしていた…
「栗生姉にいさん、どうしたんですか?何かありましたか?」
心配そうに見つめる野本直美に向かい、栗生姉は優しく微笑んだ。
「直美ちゃん、一人かい?今日は思うところがあってね、お客さんも来ないし誰もいないから早く閉めようと思ったんだよ。そうだ、良かったら直美ちゃん僕の話を聞いてもらえないか?」
いつになく真剣な栗生姉の眼差しを受け、野本直美は静かに「はい!」と答え、文筆堂の中へと入っていった……
■ 第一章 雪の坂道
冬の函館…
雪は、音を吸い込む。
その静けさの中で、栗生姉は八幡坂から函館湾を眺めていた。
吐く息は白く、胸の奥に沈んだ何かを押し上げるように熱い。
街灯に照らされた雪片が、ゆっくりと落ちまるで空から降る時間の欠片のようだった。
坂の上に立つと、函館の海が夕陽に染まり、赤と金の光が波間に揺れていた。
この景色を見るたび、胸の奥にひとつの声が蘇る。
「また、この坂で会おう。歌をやめないで」
紗季が残した最後の言葉。
あれから十年…
栗生姉は、毎日のようにこの八幡坂の上から函館湾を見つめるのを続けている。
「今日も――いないか」
呟いた声は、雪に吸い込まれて消えた。
足元の白い道には、栗生姉の足跡だけが続いている。
紗季の足跡は、もうどこにもない。
栗生姉はギターケースを背負い直し、八幡坂から海を見下ろした。
紗季と初めて出会った冬の夜、彼女は栗生姉の歌を“光みたい”と言った。
その言葉が、今も栗生姉をここへ連れてくる。
「紗季――本当に、戻ってくるのか?」
風が頬を刺し雪が視界を白く染める。
それでも栗生姉は、坂の上で立ち尽くしたまま、海の向こうにいるはずの彼女を思い続けていた。
■第二章 写真の少女
栗生姉と紗季が出会ったのは、大学時代の冬だった。
金森赤レンガ倉庫のイルミネーションが水面に揺れ、観光客の笑い声が遠くで響いていた。
栗生姉は倉庫の片隅でギターを弾いていた。
寒さで指先はかじかんでいたが、歌うことだけはやめられなかった。
そのとき、カメラのシャッター音がした。
「撮ってもいい?」
振り向くと、紗季が立っていた。
白い息を吐きながら、真剣な眼差しで栗生姉を見つめている。
「歌が、光みたいに見えたの。暗い場所ほど、よく響くんだね」
「光――?俺の歌が?」
「うん。あなたの声、寒い夜に灯る小さな灯りみたい」
紗季は照れたように笑い、カメラを胸に抱えた。
その笑顔は、冬の空気をやわらかく溶かすようだった。
「あなたは?」
栗生姉が尋ねると、紗季は少しだけ視線を落とした。
「――写真に救われたことがあるの。だから、今度は私が誰かを救える写真を撮りたい」
その言葉の奥に、栗生姉にはまだ知らない影が潜んでいた。
■第三章 白い足跡
五稜郭公園…
雪に覆われた星形の城郭は、まるで空から落ちてきた白い花のようだった。
栗生姉と紗季は雪を踏みしめながら歩いていた。
あの日から、何度目かの雪が降る日だった…
足跡が二つ並んで続いていく。
「いつかね、写真集を作りたいんだ!」
紗季が言った。
「どんな写真集?」
「光を集めた本。暗い場所にいる人が、少しだけ前を向けるような――そんな一冊」
「じゃあ、その表紙は俺が撮るよ。紗季の笑顔、世界一きれいだから」
紗季は驚いたように目を見開き、すぐに頬を赤く染めた。
「――そんなこと言う人、初めて」
「本当のことだよ」
そのとき、紗季はふと立ち止まり、栗生姉の手を握った。
その手は少し冷たかった。
「照喜――もし、私がいなくなったら、どうする?」
「は? 何言って――」
「――ううん、忘れて。冗談」
紗季は笑ったが、その笑顔はどこか脆かった。
栗生姉はその意味を、まだ知らなかった。
■第四章 消えた恋人
紗季がいなくなった朝、函館の空は異様なほど澄んでいた。
雪は夜のうちに降り止み、街は白い息を潜めている。
栗生姉はいつものように紗季のアパートへ向かった。
しかし、呼び鈴を押しても返事はなく、扉の前には小さな封筒が置かれていた。
照喜へ、とだけ書かれた文字。
紗季の筆跡だった。
封を切ると、短いメッセージが一枚。
――また、あの坂で会おう。歌をやめないで。
それだけだった。
理由も、行き先も、何も書かれていない。
「――なんだよ、これ」
栗生姉は手紙を握りしめ、アパートの前に立ち尽くした。
雪が静かに降り始め、足元の白に紗季の気配が吸い込まれていく。
その日の夕方、栗生姉は紗季の兄である北斗に会いに行った。
港の倉庫で荷物を積み込んでいた北斗は、栗生姉の顔を見るなり眉をひそめた。
「どうした、そんな顔して」
「紗季が――いなくなった。北斗先輩、何か知ってるんじゃないですか?」
北斗はしばらく黙り、煙草に火をつけた。
白い煙が冬の空気に溶けていく。
「照喜。今は紗季を追うな!あいつは――そういうやつだ」
「どういう意味ですか?」
「言えねぇよ。俺の口からは」
「じゃあ誰が言うんですか。紗季はどこに行ったんですか?」
栗生姉の声は震えていた。
北斗は煙草を足元で踏み消し、栗生姉の肩に手を置いた。
「お前が追えば、あいつはもっと遠くへ行く。だから今は――待て」
「待てって――そんなの、できるわけないだろ!」
栗生姉は北斗の手を振り払った。
港の風が強く吹き、雪が舞い上がる。
「紗季は、俺に何も言わなかった。何も――」
その声は、冬の海に吸い込まれていった。
■第五章 北斗の告白
紗季が消えてから数ヶ月…
栗生姉は仕事をしながら、夜は歌を作り続けた。
紗季が残した言葉を信じるしかなかった。
ある夜、栗生姉は立待岬へ向かった。
冬の海は荒れ、波が岩に砕け散っている。
父を失ったあの日と同じ、冷たい風が吹いていた。
そこに北斗が現れた。
栗生姉の背中を見つめ、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「――紗季のこと、話す時が来たな」
栗生姉は振り返る。
北斗の表情は、いつになく重かった。
「紗季は東京にいる。病気だ。ずっと前からだ」
栗生姉の胸が締めつけられた。
「なんで――なんで俺に言わなかったんですか?」
「言えなかったんだよ。あいつが止めた。“照喜には言わないで。あの人は優しいから、きっと自分を責める”ってな」
栗生姉は拳を握りしめた。
海風が頬を刺す。
「俺は――そんなに弱くない」
「弱いとか強いとかじゃねぇよ。あいつは、お前を守りたかったんだ」
栗生姉は海を見つめた。
波の音が胸の奥の記憶を揺らす。
「――紗季は、俺を信じてなかったんですか?」
「違う。信じてたからこそ、離れたんだ。お前が追ってくるのを、怖れてたんだよ」
栗生姉の目に、雪が落ちた。
それが涙なのか雪なのか、自分でもわからなかった。
「会いたい――俺は紗季に会いたい!」
北斗は静かに頷いた。
「なら行け。ただし、覚悟して行け。あいつは、お前が思ってるよりずっと強くて、ずっと弱い」
栗生姉は深く息を吸い、冬の海を見つめた。
「逃げない。もう二度と」
その言葉は、荒れた海に向けた誓いだった。
■第六章 東京の写真展
栗生姉は東京へ向かった…
紗季の写真展が開かれていると知ったのだ。
会場に入ると、白い壁に紗季の写真が並んでいた。
函館の冬景色。
八幡坂の夕暮れ。
赤レンガ倉庫の灯り。
五稜郭の雪。
そして……栗生姉の姿。
ギターを弾く横顔。
雪の中で笑う後ろ姿。
紗季がこっそり撮っていた瞬間が、そこにあった。
「――紗季」
栗生姉は写真に触れそうになり、手を止めた。
そのとき、会場の隅でスタッフが話している声が聞こえた。
「紗季さん、今日も来られないんですか?」
「ええ――体調があまり良くなくて」
栗生姉の胸が痛んだ。
紗季は、ここにいない。
でも、写真の中で確かに息をしていた。
「あなたの光は、まだ消えてないよ――」
紗季は写真の中から栗生姉に向かって呟いているようだった。
■第七章 美弥の涙
函館に戻った栗生姉は、雪の降る午後、いつものカフェに立ち寄った。
この店は、紗季との思い出の店あり、店主の美弥は大学時代の後輩だった。
店内はコーヒーの香りと、ストーブの柔らかな熱で満ちている。
カウンターの奥で、美弥が栗生姉に気づき、少し驚いたように目を見開いた。
「照喜さん――東京、行ってたんですよね?」
「うん。紗季の写真展を見てきた」
美弥はカップを拭く手を止め、静かに言った。
「――どうでしたか?」
「紗季は、俺の知らないところで、ずっと俺を撮ってた。俺の歌を――光だって言ってくれたんだ」
栗生姉の声は震えていた。
美弥はしばらく黙っていたが、やがてカウンター越しに栗生姉の手をそっと握った。
「照喜さん。紗季さん、戻ってきてますよ」
栗生姉は息を呑んだ。
「――どこに?」
「詳しくは言えない。でも――照喜さんに会いたい気持ちは、きっとまだ消えてない。だって、あの人――照喜さんの歌を聴きたいと泣いていたんです」
美弥の声は震えていた。
栗生姉は気づいた。
美弥はずっと、自分を想ってくれていたのだと。
「美弥――ごめん」
「謝らないでください。私は――照喜さんが笑ってくれたら、それでいいんです」
美弥の頬を涙が伝った。
その涙は、栗生姉の胸に静かに落ちていった。
■第八章 立待岬の決意
吹雪の夜、栗生姉は立待岬へ向かった。
海は荒れ、波が岩に砕け散り、白い飛沫が闇に消えていく。
ここは、父を失った場所。
漁師だった父親は、真冬の海で船が転覆し帰らぬ人となったのだった。
そして、紗季を失いかけた場所でもある。
栗生姉は海に向かって叫んだ。
「紗季――俺は逃げない。もう二度と、誰も失いたくないんだ!」
風が吠え、雪が顔に叩きつけられる。
それでも栗生姉は立ち尽くした。
「紗季。お前がどんな過去を抱えていても、どんな未来を恐れていても――俺は、紗季と一緒に歩きたい」
その言葉は、荒れた海に吸い込まれ、やがて静かに返ってきたように感じた。
……行け。
……まだ間に合う。
栗生姉は岬を離れ、雪の中を走り出した。
■第九章 白い奇跡
八幡坂は深い雪に包まれていた。
街灯の光が雪片を照らし、まるで星が降ってくるようだった。
栗生姉は息を切らしながら坂をのぼった。
胸が痛いほど高鳴っている。
「紗季――!」
坂の上に、白い影が立っていた。
雪明かりに照らされ、ゆっくりと振り向く。
紗季だった。
「――照喜?」
その声は、雪よりも柔らかく、震えていた。
栗生姉は駆け寄り、紗季の手を握った。
その手は冷たかったが、確かにそこにあった。
「どうして――いつ戻ってきたんだ?」
紗季は微笑んだ。
その笑顔は、どこか儚かった。
「照喜の歌が――ずっと私を呼んでた。逃げても逃げても、あなたの声が追いかけてきたの」
栗生姉は紗季を抱きしめた。
雪が二人の肩に静かに積もっていく。
「紗季。病気のこと、全部話してほしい。俺は、一緒に背負いたい」
紗季は栗生姉の胸に顔を埋め、震える声で言った。
「――ありがとう。でもね、照喜。私、もう長くないの」
栗生姉の心臓が止まったように感じた。
「そんなこと――言うなよ」
「本当なの。だから最後に――あなたに会いに来たの。あなたの歌を、もう一度聴きたくて」
栗生姉は紗季の手を強く握った。
「紗季――」
紗季は微笑んだ。
その微笑みは、雪の光に溶けていくようだった。
「照喜。あなたと出会えて――本当に幸せだった」
その言葉を最後に、紗季は栗生姉の腕の中で静かに目を閉じた。
雪が降り続けていた。
白い奇跡は、静かに終わりを告げた。
■第十章 未来のストーリー
紗季が亡くなってから、冬が終わるまでの記憶は、栗生姉にはほとんど残っていない。
ただ、胸の奥にぽっかりと空いた穴だけが、確かにそこにあった。
美弥はそんな栗生姉を、黙って支え続けた。
カフェのカウンター越しに、栗生姉の前に温かいコーヒーを置き、時には何も言わず、ただ隣に座ってくれた。
ある夜、美弥は静かに言った。
「照喜さん。紗季さんのこと――忘れなくていいんですよ」
栗生姉は俯いたまま、かすかに首を振った。
「忘れられない。忘れたくないんだ!」
美弥は微笑んだ。
その笑顔は、どこか寂しげだった。
「――そうですよね。照喜さんは、そういう人です」
その数日後、美弥は店を閉める決意をした。
「私、函館を出ます。ここにいると――どうしても照喜さんを好きなままになってしまうから」
栗生姉は言葉を失った。
「美弥――俺は――」
「言わなくていいんです。わかってますから」
美弥は涙をこぼしながら笑った。
「紗季さんのこと、ずっと大切にしてください。それが――照喜さんらしいから」
美弥は函館を去った。
カフェには、紗季と美弥、二人の思い出だけが残された。
春が来る頃、栗生姉はそのカフェを買い取った。
扉を開けると、紗季が撮った写真、美弥が淹れたコーヒーの香り、二人の笑顔がそこに残っているようだった。
栗生姉は静かに呟いた。
「――ここから、もう一度始めよう!」
そして、夏の終わり。
栗生姉はカフェを再びオープンさせた。
店名は……「クリオネ文筆堂」
栗生姉だからクリオネだと、美弥がいつしかそう笑っていた。
本が好きだった美弥は、かつて店にブックコーナーを設けていた。
「美弥――クリオネ文筆堂っていい名前だろ?」
紗季の光と、美弥の優しさと、自分が歩いてきた道のすべてを抱きしめるように、函館の風が、静かに店の扉を揺らした。
その音は、どこか遠くで紗季が笑っているようにも、美弥が「頑張って」と囁いているようにも聞こえた。
栗生姉はギターを手に取り、ゆっくりと歌い始めた。
雪の季節はもう過ぎた。
けれど、白い軌跡は、これからもずっと続いていく。
■第十一章 そして今を生きる
「直美ちゃん、これまで誰にもこの話をしたことはないのだよ。もちろん尾崎先生にもね。でもね、直美ちゃんにだけは一番最初に伝えたかったんだよ。でも、話す勇気がなかった。ようやく直美ちゃんに話をすることができた。そして今度こそ僕は、この話をみんなに聞いてもらいたいと思っている。直美ちゃんそれまで、どうか僕を支えてほしい!」
栗生姉の言葉に、野本直美の顔は涙でクシャクシャだった。
そして……何度も「栗生姉にいさん。栗生姉にいさん」と栗生姉に抱きつき涙を流していた。
栗生姉は恥ずかしそうに、呟いた…
「直美ちゃん。久しぶりにギターを弾きたくなったよ。僕の下手な歌を聴いてくれるかい?」
野本直美は静かに栗生姉から離れると、「はい!」と涙を拭いながら笑顔で答えるのだった。
「紗季――久しぶりに聴いてくれ。お前が亡くなって美弥が函館を離れてからだから、もう指も回らないと思うけど。でもな、今日は歌いたい気分なんだ」
そして、文筆堂にギターの音色が鳴り響いた。
END
あとがき…
冬の函館は、静けさの中に痛みと優しさが同居する街です。
雪はすべてを覆い隠すように見えて、実はその下にあるものをより鮮明に浮かび上がらせる。
『白い軌跡』という物語は、その“雪の性質”に導かれるようにして生まれました。
栗生姉と紗季の物語は、決して幸福な結末を迎えません。
愛する人を失うという現実は、どれほど願っても変えられない。
しかし、紗季が残した光は、栗生姉の中で確かに生き続けています。
そして、美弥という存在。
彼女は栗生姉を救いながら、自分の想いを胸にしまい、静かに街を去っていきました。
誰かを想うということは、時に報われず、時に痛みを伴う。
それでも、美弥の優しさは確かに栗生姉を支え、物語の中でひとつの灯りとなりました。
紗季と美弥、二人の思い出が残されたカフェを栗生姉が受け継ぐという結末は、“喪失の先にある再生”を象徴しています。
人は失ったものを忘れることはできない。
けれど、その痛みを抱えたままでも、静かに前へ進むことはできる……
そんな小さな希望を、この物語に託しました。
人生は、雪のように儚く、そして、光のように確かです。
誰かと過ごした時間は消えてしまうように見えて、実は心の奥に白い軌跡として残り続ける。
この物語が、あなたの心のどこかに、そっと灯る小さな光となれたなら、それ以上の喜びはありません。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
あなたの歩く道にも、静かな光が降り注ぎますように。
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